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第一章 「創学 東医精神の源流」
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1918(大正7)年4月、佐藤進、中濱東一郎、森林太郎(鴎外)、原敬、犬養毅、高橋是清、大隈重信、渋沢栄一など医学界、政界、財界からの支援を受けて、東京医学専門学校が誕生した。東京医学講習所の開設当初から、専門学校への昇格が模索されていた。この資料は、1916(大正5)年11月、私立東京医学専門学校創立委員長である高橋琢也が起草したもので、専門学校設立の早期実現を訴えたものである。学生らは、後に本学の校長となる佐藤達次郎の順天堂、中濱東一郎の回生病院の協力のもと、臨床や実地に励んでいた。それを目にした高橋は、「将来有意の医学養成」すなわち、優れた臨床医を育成するには、専門学校への昇格が不可欠であると強く感じていた。そこで、高橋は、各界に広く支援を呼びかけ、渋沢栄一、原敬、後藤新平などが、寄付に応じている。
- 1-1. 血署連判状
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血署連判状
×血署連判状
日本医学専門学校は、1912(明治45)年7月に設立認可された専門学校である。同校においては、1916(大正5)年5月に学生が一斉に退学する事件が発生するが、これには当時の医師開業資格の認定制度が関係していた。日本医学専門学校は、資格要件にかかわる学校設備内容を満たしておらず、卒業と同時に資格を取得することは出来なかった。学生らは改善を求めたが、学校側はこれに応ぜず、結果として1916(大正5)年5月16日に一斉退学した。その時に、学生が署名し血判を押した資料が、「血署連判状」であり、本学のルーツを紐解く重要資料である。 学びの環境を失った学生らは、同年6月に学生団を組織し、東京医学専門学校の設立案を作成し、演説会などを通して支援を求めていった。同年7月、学生団は、元沖縄県知事の高橋琢也を初めて訪問した。高橋はすでに70歳を超えていたが、かつて医師を志した自身の境遇とも重ね合わることで、学生の熱意に感銘を受けた。その後、高橋は骨董や土地など私財を売却し、本学の設立に奮闘するのであった。
出典:『東京医科大学百年史』28ページ。
- 1-2.『奮闘之半年』にみる学生の活動
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奮闘之半年
学生会の設立
×奮闘之半年
×写真裏面には部員の氏名が記載されている。
×学生会の設立
『奮闘之半年』は、日本医学専門学校の総退学から東京医学講習所の設立前後の出来事を、学生団メンバーである上村透、宇津木斌、安部達人、原三郎が記録し、1916(大正5)年12月に発行したものである。 1916(大正5)年5月16日に一斉退校が実施され、集会の様子が次のように記されている。 「学生保証人万歳を三唱なし十一時十五分に散会しぬ。折しも空は暗として一点の星光すら見とめ得ず、細き雨さえ頭上に灑ぎぬ」 すなわち、万歳三唱を終えて散会したのは午後11時15分であり、空には一点の星すら見えず、また小雨が降り、学生の将来を暗示するような描写である。 5月17日の日記には「弱者の学生今や自由の身となり実に快や云ふべからず」と記され、退校後の率直な気持ちを吐露している。同日に集合した学生は、公開演説会を開催することを決定した。5月18日、午後5時より神田青年館において前日本医学専門学校学生団の名義にて開催し、奥宮衛(海軍少将)、大角桂巌(弘道館)、大野伴睦(東京弁論社)などが登壇した。 1916(大正5)年6月には「前日本医学専門学校学生団」を結成したが、7月15日には後藤哲雄より学生団の休会が宣言された。 「吾々が五月一日以来の悪戦苦闘今日迄八十日に亘り、而して多くの後援者を得たる努力を頌し、吾人の為すべき事は大部分なし尽くしたれば、今日後は講演会の方々及裏面の同情者に頼らざるべからざる、今日以後休会すべきを宣言す」 その後、学生らは、後藤哲雄を委員長に1917(大正6)年11月に学生会を設立した。学生会は、東京医学専門学校の設立に向けて、高橋琢也と協力して資金調達に奔走するのである。
- 1-3. 原三郎先生の日記「駒より牛に」
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駒より牛に
×駒より牛に
1915(大正4)年、原三郎は日本医学専門学校に入学したが、翌年には総退学し東京医学講習所に入学した。この一連の動きを日記「駒より牛に」(筆名:左武郎、原三郎と推定)として記録し、その一部が『奮闘之半年』に掲載されている。「駒」と「牛」は学校の所在地の頭文字である。「駒」は日本医学専門学校の病院が駒込に置かれ、「牛」は東京医学講習所の所在地が牛込であることに由来している。
1915年4月15日条
「とにかく入学許可となり嬉しかつた。重荷をおろしたやうにがつかりして、緊張して居た心はグツト緩んでしまつた」
1916年2月5日条
「入学後半喜半憂して一日として楽しき日なく、学校を愛して且之を斥け、常に不安の境に陥るなり。十二月十八日の夜、我々四百の青年の半ば勢力を殺ぐは、即ち磯部なる偽教育者山師の存在するためなり。彼を排斥すべく血判状製作の際、第三位に押印せしを記憶す」
1916年5月15日条
「学校を愛する者は退学さるるなり、思えば過去一ヶ年半信半憂を以つて在学し、本日退学の運に合ふ、而して少しも落胆悲観なきは勿論、むしろ重荷をおろせるの感ありて心地よし」
1915年(大正4年)に日本医学専門学校に入学した原であったが、1916(大正5)年2月には血判状に押印し、5月15日に総退学し、重荷を下ろしたという率直な感想を吐露している。 1916(大正5)年9月11日 の東京医学講習所開校式において、原は短歌2首を詠んでいる。 今日よりは新しく生くと誓ひてし己が心のあらたまるなり 今日の日を忘れずありて永久にかたき心をもちて卒へなむ その後、原は1924(大正13)年に東京医学専門学校の教授に就任し、薬理学教室を創設した。そのほか、短歌などの文才にも恵まれ、年史の編さんに尽力したほか、1975(昭和50)年12月には、歴史史料室の初代室長に就任し、創設以来収集された資料の保存と活用に努めた。
出典:『奮闘之半年』171~173ページ。
- 1-4. 東京医学専門学校の設立にむけて
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無試験認定校の指定に歓喜する学生本部員
(1920(大正9)年4月)×無試験認定校の指定に歓喜する学生本部員(1920(大正9)年4月)
×無試験認定校の指定に歓喜する学生本部員(1920(大正9)年4月)
1916(大正5)年9月、東京物理学校の校内に東京医学講習所が開設された。設立者に高橋琢也のほかに大角桂巌、福本誠、寺尾亨、秋虎太郎、顧問に佐藤進、中濱東一郎、森林太郎(鴎外)が名前を連ねている。 専門学校への設立に関係したのは、講習所と同様に上記8名であった。なかでも、高橋は東京医学専門学校委員長として建設資金の獲得に奔走した。1916(大正5)年12月までに168名から協賛を得ることに成功し、渋沢栄一、原敬、高橋是清、大倉喜八郎、池田成彬など政財界から協力を取り付けた。1917(大正6)年6月には、約10万円の巨費を投じ、東大久保(現?新宿キャンパス)に学地4,206坪を購入したのである。 しかし、校舎の建設は容易には進まなかった。同年9月に東大久保において木造校舎が着工したが、11月の暴風雨のため倒壊した。再建資金を獲得するため、高橋は所有する書画骨董のほかに土地、さらには日本画家に書かせた絵画を売却し、建設資金の獲得に注力した。1918年(大正7)年1月には、ようやく新校舎が竣工し、東京物理学校から新校舎に移転することとなる。 悲願であった専門学校への昇格については、同年4月11日に東京医学専門学校の設立が認可され、13日には開校記念式を挙行した。その後、校舎や設備を次第に整え、1920(大正9)年4月に東京医学専門学校は、無試験で医師開業資格を得ることができる無試験認定校に指定され、同年6月には150名の学生が卒業している。
出典:『東京医科大学百年史』28~29ページ。『東京医科大学五十年史』53、57、63、73ページ。
- 1-5. 東医人物誌 創立委員
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高橋琢也
×高橋琢也
高橋琢也(タカハシ タクヤ)
1847(弘化4)年~1935(昭和10)年芸州安芸郡牛田村(現広島県広島市)生まれ。8歳の時、医者になる決意を抱き14歳で大阪薬種問屋の丁稚をしながら漢方医学を学び、外科医の学僕となる。その後、同郷の官僚である船越衛を頼り江戸へ出て開成学校(大学南校、後に東京医学校と合併して東京大学となる)でドイツ語を学ぶ。陸軍省ならびに参謀本部で翻訳業務に携わり、その後、東京農林学校教授、農商務省山林局長、沖縄県知事、貴族院議員などをつとめた。1916(大正5)年6月2日、同郷の学生である長委三美と藤中正の訪問をうけ、医学校設立への尽力を約束し、東京医学専門学校創立委員の一人となった。1917(大正6)年、東大久保4,206坪の土地購入の資金20万円獲得3方策として協賛員(寄付者)の獲得、国から木材の払い下げとその売却による利益の取得、日本画家への揮毫依頼とその売却による利益の取得を立案し、さらに、自分の土地家屋や骨董絵画を売却した。1918(大正7)年4月11日東京医学専門学校設立が認可され、高橋琢也理事長、佐藤達次郎校長で登録。1935(昭和10)年1月19日肺炎?脳溢血にて他界。享年89歳。著作に『森林杞憂』『森林法論』『起て沖縄男子』。立憲青年自治党機関紙『国論』発刊。
出典:『東京医科大学百年史』96ページ。
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秋虎太郎
×秋虎太郎
秋虎太郎(アキ トラタロウ)
1865(慶応元)年~1922(大正11)年政治家。関宿藩士の出。明倫学舎と紫溟学舎で学んだ。小学校教員や新聞記者を経て、1890(明治23)年、本郷区会議員に当選。以後、当選を重ね、議長にも就任した。1891(明治24)年には東京府会議員に当選し、1896(明治29)年には東京市会議員に当選した。その後、1920(大正9)年、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。東京医学講習所初代の主幹であったが病気のため、高橋琢也が引き継いだ。
出典:『東京医科大学百年史』96ページ。
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大角桂巖
×大角桂巖
大角桂巖(オオスミ ケイガン)
生年不詳~1942(昭和17)年明治から大正時代にかけての実業家。日本医学専門学校学生の保証人であったことから、1915(大正4)年末以来の学生のストライキを支援していた。日本医学専門学校の学生達にとっての精神的支柱として大きな存在であった。その後、本学の創立に関わり、東京医学講習所設立委員の五名士の1人として知られる。柔道家(柔道五段)でもあり、講道館の嘉納治五郎より激励があったことが『奮闘之半年』に記述されている。
出典:『東京医科大学百年史』97ページ。
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寺尾亨
×寺尾亨
寺尾亨(テラオ トオル)
1859(安政6)年~1925(大正14)年明治?大正期の法学者。藩校修猷館に学んだ後、司法省法律学校(東京帝国大学法学部の前身)に入学し、東京帝国大学教授となる。同郷の学生達から総退学の経緯の実相を聞き同情、学生団幹部の会議場を提供し、支援した。兄は東京大学附属東京天文台初代台長の寺尾寿で、当時夜間学校であった東京物理学校(後の東京理科大学)の初代校長であり、東京医学講習所は昼間教室を借用して発足した。アジア主義を唱え、孫文が辛亥革命を起こした際には、教授の職を捨てて現地に飛んで孫文を支援した。原三郎によると、寺尾邸に行った際に、中国革命の志士である黄興と出会ったという。
出典:『東京医科大学百年史』97ページ。
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福本誠
×福本誠
福本誠(フクモト マコト)
1857(安政4)年~1921(大正10)年ジャーナリスト、政治家、史論家。福岡藩士の出。藩校修猷館に学び、司法省法学校に入学するも、「賄征伐」事件で、原敬?陸羯南?国分青崖?加藤恒忠らと共に退校処分となる。1889(明治22)年、新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。1905(明治38)年『九州日報』(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任する。1908(明治41)年には、憲政本党から衆議院議員に当選する。同年、『元禄快挙録』(現在は岩波文庫全3巻)を連載し、近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し、現在の忠臣蔵のスタイル?評価を確立する。訪ねてきた長委三美達に学生の団結を説き新校設立の必要を唱道した。
出典:『東京医科大学百年史』97ページ。
- 1-6. 東医人物誌 顧問
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佐藤進
×佐藤進
佐藤進(サトウ ススム)
1845(弘化2)年~1921(大正10)年常陸国太田内堀(現常陸太田市)出身。学生同盟退学した茨城県人会学生の訪問をうけ、学生支援を快諾した。ただ、東京医学専門学校の設立には直接参加せず、嗣子の達次郎を校長として派遣した。佐藤尚中の娘と結婚して養嗣子となり戊辰戦争では軍医として従軍、1869(明治2)年よりドイツへ留学。ベルリン大学を卒業、東洋人として初の医学博士の学位を取得し、1877(明治10)年、西南戦争で陸軍軍医監をつとめた。1882(明治15)年、順天堂大学第2第院長。佐倉順天堂3代目の当主となった。1894(明治27)年、日清戦争で陸軍軍医総監として、1904(明治37)年、日露戦争で陸軍軍医総監として活躍した。
出典:『東京医科大学百年史』98ページ。
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中濱東一郎
×中濱東一郎
中濱東一郎(ナカハマ トウイチロウ)
1857(安政4)年~1937(昭和12)年1881(明治14)年、東京帝国大学医学部卒業。中濱万次郎(ジョン万次郎)の長男として江戸で生まれる。東京帝国大学医学部では森林太郎(森鴎外)と同級。1885(明治18)年、ライプツィヒ大学へ留学し衛生学を専攻した。東京衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)所長をつとめ、のちに退官し麹町で回生病院を開業した。1916(大正5)年7月13日、長委三美から電話があったことがきっかけで東京医学講習所設立にかかわり、同年9月18日、顧問及び内科学教授就任を受諾、回生病院で学生臨床修練を開始した。回生病院は、1917(大正6)年9月6日、石黒忠悳の斡旋で売却、東大久保の敷地に移築され附属博済病院となった。
出典:『東京医科大学百年史』98ページ。
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森林太郎(鴎外)
×森林太郎(鴎外)
森林太郎(モリ リンタロウ)
1862(文久2)年~1922(大正11)年1881(明治14)年、東京帝国大学医学部卒業。卒業後軍医となり、陸軍派遣留学生としてドイツへ留学し、軍の衛生学の調査および研究のために陸軍軍医総監?陸軍省医務局長を歴任。そのかたわら、小説『舞姫』『鴈』『山椒大夫』『高瀬舟』などの小説のほか、医学?文学の評論、戯曲などの翻訳などをおこない、明治を代表する知識人として活躍した。1916(大正5)年東京医学講習所の開設を支援し、初代顧問に就任した。
出典:『東京医科大学百年史』98ページ。
- 1-7. 校章
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東京医学専門学校時代の
校章設立60周年記念に制定された現在の校章
×東京医学専門学校時代の校章
×設立60周年記念に制定された現在の校章
1916(大正5)年9月に「東京医学講習所」が開設され、その際に帽章が作成される。これが本校の校章の起源とされる。当時の学生団のメンバーの一人が「打って一丸となす」という意味をこめて、「醫」の字の下の方を尖らせて弾丸型にした在学生多久俊の案が採用され、ようやく帽章が誕生したのである。医学を習得しようとする学生の熱意、すなわち「自主自学」の精神が、帽章には込められている。1976(昭和51)年の創立60周年に際し、校章のデザインの規定が設けられた。なお、現在の校章は、ハート型にも見えることから「心のこもった医療の提供」を目指すという強いメッセージが込められている。
出典:『東京医科大学五十年の歩み』27ページ、「歴史読本」、『東京医科大学百年史』巻頭口絵。
- 1-8. 校旗
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校旗
×校旗
東京医学専門学校の校旗については、1929(昭和4)年4月に制定された「東京医学専門学校内則」のうち「校旗ニ関スル規定」に定められている。生地の色は白色、質感は絹織物の一種である精好織(せいごうおり)、厚手の綿布を縫い合わせた刺子(さしこ)であった。校名および、「醫」のマークは黒色、マークの周辺には緑色の月桂樹が施されていた。旗の縁は金線が施され、総(ふさ)は紫の絹糸で綾織の縄目で仕立てられていた。校旗を平置きしたサイズは、縦2尺2寸(約66cm)、横3尺3寸(約99cm)、総の長さは3寸5分(約10.5cm)、旗竿全長は6尺5寸10分(約198cm)と定められていた。 その後、1948(昭和23)年に、青地に金文字で「醫」の字を用いたデザインとなった。1976(昭和51)年、スクールカラーをマンセル色票の2.5R4/8(アズキ色)と定めたため、現在ではこの色の応援旗も使われている。