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高橋琢也

第三章
「継承 『自主自学』の歴史」

第三章「継承 『自主自学』の歴史」

 1916(大正5)年9月に東京医学講習所が設立され、続いて1918(大正7)年4月に東京医学専門学校の設立が認可された。1920(大正9)年4月に無試験認定校に指定されるなど、1920年までに東京医学専門学校の教育施設や制度が次第に整備されていった。  これ以降も、東京医学専門学校は、教育研究施設の拡充を進めていく。1920(大正9)年には木造2階建ての校舎が落成、1924(大正13)年8月には博済病院本館が完成し、東大久保(現?新宿キャンパス)に研究および臨床施設が整備されたのである。  ところが、1928(昭和3)年3月、附属博済病院からの出火により病院と教室が失われた。この窮地を救ったのは、学生の自主的な活動であった。専門学校から大学への昇格をめざし募金活動をしていた学生は、校舎の復興に立ち上がったのである。自らの学ぶ環境を再建しようとする、学生の強い意気込みが感じられる。校舎の焼失は本学の危機的状況であったが、自主自学の精神に根ざし復興、さらなる発展を遂げていく。火災からの復興を象徴する建物が基礎医学校舎(現?第一校舎)であり、1929(昭和4)年10月に落成し、翌月には創立10周年記念式典が開催された。  1930(昭和5)年10月には、東京府豊多摩郡淀橋町柏木(現?西新宿キャンパス)の土地を買収し、1931(昭和6)年5月に敷地内の家屋に附属淀橋診療所が開設された。1932(昭和7)年10月には、柏木の敷地内に鉄筋コンクリートの建物が完成し、同年11月には診療所を附属淀橋病院に改称した。これにより東大久保の附属博済病院は廃止され、西新宿の地に病院機能が集約されたのである。

3-1. 東医建物史 焼失前の校舎と病院
3-2. 東医建物史 復興後の校舎と病院

 1928(昭和3)年3月、附属博済病院からの失火により、病院の大部分と細菌衛生学教室、薬理学教室、解剖および病理学教室、そのほか事務所を含む本館が灰燼に帰した。  1925(大正14)年11月に、学生らによる東京医専昇格学生期成同盟会、さらに校友を中心とする東京医専大学昇格期成後援会は、熱心に募金活動をすすめていた。活動の拠点を失ったことで、大学昇格以上に校舎および病院の復興が最優先されたのである。  復興の試金石として、最初に建設されたのが、基礎医学教室(現?第一校舎)であり、1929(昭和4)年10月に落成した。翌月には、落成記念を兼ねて創立10周年式典が挙行された。  病院については、1930(昭和5)年に、豊多摩郡淀橋町柏木(現?西新宿キャンパス)の土地2,264坪を買収し、1931(昭和6)年には附属淀橋診療所を開設した。1932(昭和7)年10月には鉄筋コンクリート、地下1階、地上2階の建物が完成し、翌月には附属淀橋診療所を附属淀橋病院と改称し、この建物で診療を開始した。なお、東大久保に設置されていた附属博済病院は、附属淀橋病院に合併し閉院となった。  このように、大学と病院が失われたことは残念な出来事であったが、ここでも「自主自学」の精神により、学びの場を復興するという強い意思が働いたのである。それを物語るエピソードとして、従前の基礎医学校舎の設計に学生委員会という組織が関係したほか、委員会室には毛筆で「努力」の二文字が書かれた。校舎新築への並々ならぬ熱意が感じられよう。  こうした一連の復興策により、東大久保(現?新宿キャンパス)には学校機能、柏木には病院機能が集約することとなり、結果として東京医学専門学校の拡充、また、将来的な発展の基礎を構築したのであった。

出展:『東京医科大学50年史』130~132ページ、『東京医科大学百年史』31ページ。

新校舎落成記念の絵葉書

東京医学専門学校「昭和四年十一月十日 創立十週年新校舎落成 記念絵葉書」 第一校舎、高橋琢也、佐藤達次郎の写真がデザインされた絵葉書。旧蔵者は原三郎先生

 1920年代後半以降、東大久保の校地が狭隘であることが課題として登場すると、病院機能の転出が議論されるようになった。1930(昭和5)年3月に東京医専後援会が発足し、佐々一雄、川目鉄太郎、小川東洋、原三郎らが活動を始めた。その結果、1931(昭和6)年6月時点で教職員、学生、卒業生などを合わせて2,835名、寄付金総額約14万円が集まった。新校地の立地条件としては東大久保から徒歩30分圏内などがあげられ、最終的に淀橋区柏木町、現在の東京医科大学病院がある西新宿に1930(昭和5)年10月に用地を購入した。ここには、もともと木造瓦葺2階建て家屋と土蔵(坪数256坪)の建築物があったが、1931(昭和6)年5月11日に既存の家屋256坪を利用し、附属淀橋診療所が開設された。1932(昭和7)年に敷地内に鉄筋コンクリート3階建、478坪の病棟建設を開始し、同年10月に落成式を挙行、11月には淀橋診療所と博済病院を廃止し、ここに淀橋病院が開設されたのである。

3-3. 自主自学の精神の結晶:校歌

 東京医科大学の校歌は1920年代に製作、演奏されたと記録されている。『東京医科大学50年史』によれば、1922(大正11)年頃には、すでに土井晩翠により歌詞が作成され、陸軍軍楽隊隊長の平野主水が1924(大正13)年に作曲し、同年には校友会幹部により校歌が制定された。遅くとも1925(大正14年)には校歌が完成しており、次第に演奏される機会が増えた。1926年11月には校友会大会において、1927(昭和2)年の文化祭において高橋琢也銅像前において演奏会が開かれたのである。

『東京医科大学50年史』155ページ、(「校歌作曲の裏話 作曲者の甥 平野氏(昭3卒)より」『東京医大新聞』101号、1974年6月10日)『東京医大新聞』第101号、『東京医科大学百年史』30ページ。

3-4. 自主自学の精神の継承

 建学の精神にかかげられている「自主自学」は、1930年代の入学案内において確認できる。『東医学園時報』第8号附録 入学案内号(1935年12月20日)掲載の「吾が東医学園」においては、 「生徒を主とする自由な学園であり従って『自主自学』を学風としている」と記述されている。戦後に、東京医科大学を設置する際に、大学の目的と使命において、「自主自学の創学の精神を体得し、盛んに公共の福祉に貢献する医人を育成」することが謳われている。

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